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散歩に行こう

アカウントを取得してブログを書き始めることにしたよ。今日現在では、ブログのタイトルは、「娘たちよ、散歩にでも行こうか」としている。娘たちへ書いているのだ。

散歩に行こうというのは、別に、外を出歩かなくても、いろいろと考え事の寄り道してみようよ、ということである。娘たちよ、君たちはまだ幼い。いま私が考えていることをそのまま伝えても、おそらく理解できないだろう。では、君たちが大きくなるまで待っていたら、私が今まさに考えている、このホットな、等身大の思いや考えを伝えることはできないかもしれない。君たちが大人になった頃、私は考えが変わっているかもしれない。私はもっと成熟してしまっているかもしれない。それでは面白くない。だから、ブログにでも書き留めておこうと思ったのだ。

このブログには、何か大きなテーマがあるわけではない。そんなものは必要ない。「目的」とか、「意義」とか、そういう分かり易いものは必要ない。私は海外旅行へ行って、スケジュールを組んで、あちこちを回る団体ツアーが嫌いだ。それに参加して、回ることが目的になっている。でも目的であるから安心感もあるのかもしれない。でも私は嫌いだ。だから、私は、今までそういうものに参加したことがない。海外に行ったときは、その日その日、"行き当たりばったり"で行きたいと思ったところに行く。半日ホテルで寝ていたり、本屋で立ち読みしたり、喫茶店で過ごしてしまうこともあった。そういう目的のない旅が好きだ。

実は、今は君たちには言えないし、言わないつもりだが、「人生には明確な目標を持て」というのは好きではない。それを強調しすぎると、目標や目的がなければ人生が無味乾燥なものに聞こえてしまうではないか。何か特定の目標や目的があって、そのために邁進するだけが人生ではないと私は思っている。だいたい、人間が生まれてきて、やがて死んでいくのに、本当の意味での目的とか目標があるのだろうか。そういうものはない、と考えるのも、あながち間違いではないだろう。

これは散歩だ。行くあてもなくブラブラと歩いていると、道端の花に気付くかもしれない。近所のおばあさんに会って、とりとめもない話しをするかもしれない。危ない目にあうかもしれない。雨が降って濡れてしまうかもしれない。虫をたくさん見かけるかもしれない。面白い子供に出会うかもしれない・・・。そういうふうに、散歩を楽しむように、人生を楽しめたらいいと思う。もちろん、「そんなことでは大きな仕事、立派な仕事はできない」という人もいるだろう。でも、それが何だというのだ? どのような人間も、遅かれ早かれ、何れは死ぬんだから。じゃあ、何が大きな仕事で何が立派な仕事なのだろうか? ヘッジファンドで大儲けすることか? 会社の社長になることか?大きな橋やビルを建てることか? それはそれで大きくて立派ないい仕事かもしれない。

でも、君たちを育てていることだって、人間にとって一番大事で大切でかけがえがないことだと思う。それには何か目標が必要なのだろうか? 有名私立小学校へ入学させることだろうか? 振り返って、たとえば、私がママと出会って結婚するという人生の大きな転換点において、私は目標があったのだろうか? 本当に偶然に出会ったのだ。目標を持っていたわけではない。子供を育てるときに特定の目標を設定したほうがいいのだろうか? 親友とたまに会って話をするのに目的や目標が必要だろうか? きっと人生はそんな単純なものではないのだろうね。

ところで、円高だそうだ。海外に行かないので個人的な生活には関係ない。私の職場ではそれなりに影響があるかもしれないが。これからどうなるのか? そんなことは分からない。分かるわけがない。分かったら億万長者だ。未来がどうなるかなんてわかるわけがない。そんな話をしていたら、職場で、ある女性が「占い師に聞いてみたら?」「当たる人がいるらしいよ」と無邪気に言っていた。将来に関する「占い」は当たらない。将来を「当てる占いはない」と思った方がいい。当たったとしたら、①それがたまたまだった、②当たったとも言えてしまうぐらい、占い自体が抽象化されていたり曖昧だったか、の何れかだ。

未来について「当たる占い」というのは私は信用できない。そういうものが、もしかしたら、この世にあるかもしれないと私は思っているが、よほどの実例をこの目で見ない限り、未来の占いに関しては疑いの目で見ている。

将来とか未来というものを当てることができるのであれば、その占い師は仕事を変えるべきだろう。変えるかどうかは本人の自由だが。例えば、「あしたになれば大根の値段が倍になる」と「とても良く"当たる"占い師」が言ったとしよう。どうなるだろうか? 値段が倍になる前に大根を買おうとする人が増えるだろう。何せ、その占い師はよく当たるのだから。そして、その日のうちに大根の値段は倍になってしまうだろう。この占いが当たるためには、当初は「明日は今日の倍になる」と言っていた値段が、今日既に倍になってしまったので、当初の4倍の根台にならないといけない。でも、そうすると、最初の「倍になる」という占いは間違っていたことになる。

この説明はこのぐらいにして、何れにせよ、将来の占いは当たらない。いやいや、八百屋が閉まっている夜に、そういう占いをすればいいんだよ、という人がいるもしれないが、もはやそんなことはどうでもいいだろう。そういうことを一生懸命考えてもしょうがない。

「占いは統計学だ」などという人がいる。そんな人には気をつけてほしい。その人は統計学を知らない人だ。そして、統計とは何かが分かっていない人だろう。技術的なことはさておき、そもそも、その占い師が言う「統計」とは何だろうか? 人の人生を単純化し、何かの傾向別に数を全て数えたのだろうか?  君たちが今まで歩んできた人生を、たった一言か二言で、それも成功か、失敗か、というように占いに応用できる評価軸で言い表すことができるだろうか?

とても一言か二言で語れるものではないかもしれない。それならば、誕生日だの、名前の画数だの、血液型だの、星座だの、という特定の切り口でもって、ステレオタイプ化された人生や性格を評価されるのは、人間心理のいいところをついてきているような気もするのだが、それに依存するのはおかしい。

そんなものを大切にし過ぎることは、この世に命をさずかった奇跡に対して侮辱ではないかとさえ思うこともあるよ。だから、私もママも、あなたたちの名前を付けるとき、姓名判断とか、画数などというものは全く気にしなかったし、そのような参考本などみないで付けた。もちろん、非常識な名前などはつけていないつもりだ。どこの馬の骨とも分からない人が書いた、実は信頼できる統計など持っていなくて(個人で集められるような、名前と人生をステレオタイプ化して関連付けた統計などない)、どうしてそういう説明になるのか全く分からないのに、それを一生懸命書いている。

そのような人たちに、かけがえのない君たちの名前を事実上決めさせることなど出来やしないではないか。彼らは、普段は普通の人だぞ。仕事としてやっているのだ。小学校、中学校、高校も普通に出て、大学行った人もいるし、海外に行っていた人もいるだろう。そして家族がいたり、いなかったり。何れにしても、生活をしていかなければならない普通の人間であって、神がかり的な人はいないだろう。いわば、アカの他人だ。そういう人のアドバイスで、この世で最も大切な我が子の名前をつけられるかい?  別につけてもいいんだけど。何か悪いことがあっても、名前のせいにしちゃいけないよ。もっと大きくなって、姓名判断の本か何かで、あまり良くないことが書いてあったとしても、そんなものに振り回されてはいけないよ。私やママの愛情よりも、そのような本を書いた人の一言を気にするのは、本当に無益なことだよ。

そのようなまやかしに騙されないために何が必要なんだろうね?

ブラブラと散歩するのがいいな、と私は思っている。目標を持って走っている人は美しいが、その人が、柔軟な発想や深く物事を考えているとは限らないよ。やっぱり、いろいろなことを見て、感じて、話して、聞いて、そういう散歩をするのがいいと思っているよ。運動不足の解消にもなるしね。そういう散歩の中で、自分の思いとか考えといものが出来てくると思っている。

自分の思うままに、自分で考えて、自分が行きたいところへ行って、観て、感じて、話して、聞いて、味わえばいいのだ。そうしていると、今まで思ったり考えていたことが不思議に思えることが出てくるかもしれない。昔は常識だったことが、今では非常識になっていることなんかいくらでもある。日本では常識になっていることでも、海外へ行けば非常識なことはいくらでもある。そう考えると、学校や職場で当たり前のように教えられていたり、行われたりしていることは、実は非常識なことなのかもしれない。そういう広い視野をもって、物事に接することが「少しでも」出来ればいいよね。いつも、そういうことばかり考えていると、社会性や協調性がない人物だというレッテルを貼られてしまうリスクもあるから、「少し」でいいとは思うぞ。無理をする必要はない。したければすれないいけれども、したくない無理をする必要はないと思う。

このブログがいつまで続くか分からない。もしかすると、明日には書かなくなってしまうかも知れない。分からない。未来のことは誰にもわからない。でも、まあ、そんな感じで気楽に行こう。何でも知っていて、それでいて人間的で、よく失敗して、ときには怒ったり、悲しんだり、強くて、優しく見えているであろう(?)現在のパパが等身大で書いているよ。大きくなって、大人になって、このブログあるいはブログを印刷したものを君たちがみたとき、へえ、あの頃、そういうことを、そういうふうに考えていたんだ、へえ? と少しの驚きと安心感がわいてくるならば、書いた甲斐もあったというものだ。

あ、この間、朝早くに撮った富士山の写真だよ。
朝焼けと富士.JPG

きれいだね。
じゃお休み。



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