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健康とか予防接種とか [健康]

誰も立ち寄るものはいないかもしれないほど、何年も更新していなかったブログですが、それでも偶然に立ち寄った人たちへ。あけましておめでとうございます。
昨日、地元の神社へ初詣に行ってきました。その神社付近は大渋滞が予想されたので電車で行きました。それにしても寒かったー!! ものすごく寒かった。あまりに寒くて、神社まで行く道すがら、暖かい甘酒を2杯も飲んでしまった。甘酒は身体に良さそうだし——その甘酒の店の看板には「甘酒は飲む点滴」と書いてあった。別の店先には、「飲む抗生物質」といあった。誇大広告ではないか?と思いつついずれにしても身体にいい(かもしれない)ということだな、という感覚もあって——飲んでみたわけだ。実際、身体はかなり暖まった。ありがとうございます。

「身体に良い」といえば、最近気になっているのがインフルの予防接種である。この予防接種は本当に意味があるのだろうか?ということである。
「極度の予防接種教信者」の人は、「予防接種をすればインフルエンザには罹患しないし、それは翌年に予防接種するまで効果が持続する」と信じているらしい。しかし、それはいくらなんでも間違っている。解説する必要もない。
「軽い予防接種教信者」の人は、「予防接種をしてもインフルには感染することがあるが、高熱を発するなどの“ひどい症状”になることはなく、例えば、体温が38度台で収まる」のだそうだ。しかし、それは違う。正確に言えば「症状が軽くなることがある」のであって、「必ず症状が軽くなるわけではない」のだ。

面倒だから頻度主義確率が正しいかどうかなんて議論はさておくが、一応、俗に言う「罹患確率」とやら(ただし頻度主義確率)は、予防接種をすれば低下するかもしれないことを示唆している(らしい)。だが、予防接種をすると、罹患する「確率」が低下するだけであって、非常にゼロに近いところまで確率が低下するわけでなない。

人間は、とかく、確率なるものを「ゼロ」か「1」(あるいは100%)のどちらかだ!と判断をしがちなので、これ以上あれこれ言ってみても殆ど実生活には役に立たない。

おまけに、この「確率」とやらは、頻度主義者が「実証できた」と主張する人たちだけの見解だ。だから厄介だ。過去のデータで得られた発生頻度が、将来もまず同じだろう(強定常性または弱定常性を仮定)すること自体が、大きな前提、つまり過去におきたことは、きっと将来も同じ頻度で起きるに違いないという信念、宗教のもとで確立された、頻度主義者による「確率」の概念なのだ。いずれにしても、ワクチンだの「予防」だのと売り込んでみても、やられるときはやられる、やられたときは薬でおさめる、ということであれば、予防接種は不要とも言える。

今後やってほしいことは、毎年毎年、インフルの予防接種をした人と、しなかった人の罹患率の比較をテレビも使って説明し、「それでもインフルの予防接種をしたい人はどうぞ。でも、この程度の効果しかないなら必要ないと判断した人は、しないでもいいと思います」という、個人個人のリスクへの対応の判断を強く求めるのがいいだろう。「もし罹患した場合には、こういう対処法になります」ということも説明する必要もあるけどね。

なんで正月早々こんな話をするかといえば、我が娘が予防接種をしたにもかかわらずインフルに罹患し、40度程度の高熱を発したからだ(もう回復しているが)。そして本日飲み過ぎているからだ。

予防という名の下に、本当に意味があることと、実は意味がないけど慣性の法則のような効果が働いて伝統的に漫然とやっていることがあるかもしれない。もちろん、それらが何らかの「既得権益化」された事象ではないことを祈る。詳しい人がいれば、そういうことももう一度考えて説明してほしい。結局、俺たち素人には良く分からないのだから。

新年早々変な話になってしまったが、本年もどうぞよろしくお願いします。

おやすみなさい(今日は飲み過ぎました)
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やる気ゼロ

ツイッターなんて気軽なものが流行っているおかげで、腰を据えてブログを書く気になれない。

いや書けばいいだろ、とも思うんだが、なんだかどうでもよくなってしまう。

長い解説、説明、ブログは誰にも読まれないということかもしれん。

短い文章で何か伝える。いわば、新聞の見出しだけ読む文化、ってな感じだ。

まったくつまらないものだ。

ではおやすみ。
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言葉 眠い スパーク

妻へ、娘たちへ

もう3時半だ。今日は仕事が忙しくて、タクシー帰りだった。

仕事のために生活しているのか、生活のために仕事をしているのか・・・・。そんなことはどうでもいい。
仕事も生活も私の言葉みたいなものだ。このブログに書いているような「言葉」ではなくて、仕事の仕方、考え方、仕事との接し方、そして生活スタイル、家族との接し方、生き方、そういうもろもろのことは、全て良かれ悪しかれ私が発している言葉のようなものだ。

何か目標があってそれが実現できたかどうかは問題ではない。それに越したことはないが、それでは私にとっては面白くない。私は私が納得できるギリギリのとこまで行けたかどうかだけが大事だ。もちろん、仕事なのだから、自分の思い通りにならないことなどやまほどある。そういうことを含めて、ギリギリまでやってみる。そういうやり方が私のスタイルなのだ。そういうふうにしかできない。でもときどき飽きがきたり、疲れたりして、手抜きしたりして、あとで痛い目をみたりすることもある。

結局、自分が自分であるようにやるほかなくて、やろうとしてできないことも、できたことも、やらなかったことも、なにもかも私自信の言葉のようなものだ。

などと、こんな夜中にパソコンに向かって考え事をしていると、瞬間的な想いのようなものがスパークして変なことをかいたりするものだが(そうそう、夜中にラブレターを書くようなもの。でも私は書いたことがないのだが)、そういうことを含めて、これも全部私の言葉だ。

誰かに何かを残そうなんて、大それたことは考えていない。家族に向けた具体的な言葉で、伝えきれなかった、いや伝えなくてもよかったのだが思わず伝えてしまうことも、書きとめておこう、という気持ちがつよい。

その媒体がなんでブログなのか。別に意味はない。かつて何となくはじめたもので、便利だから。パソコンを買い換えても、大丈夫だから。頼めば冊子にしてくれるサービスもあるから。しかし、冊子にするなら、もっともtっと長大な時間をかけて構想を練って、校正を繰り返してからにしたいけど、そんな暇もなく。

で、結局、何がいいたいのか。それは、眠いということだ。眠る前に、とりとめのないことを語りたかっただけなのだ。なにせ、こんな夜中まで仕事すると、頭が興奮していて、かえって寝付けなかったりするから。ということで、今日は寝てしまう直前の戯言であった。ここに書いてあることが私が普段から考え抜いているようなものというわけでもない。瞬間的なスパークみたいなものだ。意味なんてないと思ってほしい。
ああ眠くなってきた。
では おやすみ
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私が癌になったら

妻へ、娘たちへ

私の父は胃癌だった。父が40代の頃だ。手術で胃を全摘、そして回復。その後は元気に長らく過ごしていた。しかし、いつの日か改めて病魔が襲った。食道癌だった。医者は、胃の殆どを摘出しているので、食道を切除し、腸とつなげるような大手術が必要と言った。結局、リスクの高い手術はせず、放射線治療を行い、しばらく家で過ごし、数か月という短い期間であったが、母とドライブ、旅行、釣り、食事を楽しんでいた。そして亡くなった。

私は人生で最大の後悔をした。

医者は、「ガンである」とは明言しなかった。父は、そのために「腫瘍か何かをとらなきゃならない」と信じていた。だが、二度目の奇跡はないだろうと思った私は、医者と話したうえで、父にガンだと告げた。それを信じない父に、医者に質問してみるように言った。父は医者からガンと言われた。

なぜ、私はこんなに残酷なことをしたのだろう。私は、父が胃癌を克服した記憶があったために、今回も、ガンであることを受け止め、セカンドオピニオンを求め、場合によってはサードオピニオンを求め、出来る限り万全の態勢で臨み、直すのだと勝手に思い込んでいた。若気の至りでは済まされないことだ。

私は父を説得し、仕事を辞めさせた。治療に専念するためだ。

巷で売られているガンと名のつくあらゆる本を買いあさり、寝る間も惜しんで読んだ。怪しげな本も読んだ。一部には宗教色があるものまで読んだ。それでも、ガンが一体何であるのか、その本当のところは私には分からなかった。何が望ましい治療法なのかも分からなかった。早期発見と外科手術、放射線治療、自然療法、色々な薬のようなものも取り寄せて飲ませた。しかし、何もあてにはならなかった。成功体験などの逸話に振り回される自分が情けなかった。

何が間違っていたのか。
父に仕事を辞めさせたことだ。
父にガンを告げたことだ。

ガンを告知され、仕事まで辞めた父の精神的落ち込みようは、それはもう言葉では言い尽くせないほどだった。気がまぎれることもなく、あっちの病院、こっちの病院へと検査してまわり、意見を求め、家では死への恐怖、痛みとの闘い。それは闘いという言葉を使うには、幼い頃から偉大な父であった父なのに、そんなに格好いいものではなかった。ソファーで肩を落としてうつむいて座っていた父。

父は家にいても、気はまぎれなかった。あの人は仕事が生きがいだった。仕事が全てだった。だから仕事はさせてあげるべきだった。ガンの告知もするべきではなかった。本人も、いずれうすうす気づくだろう。それで良かったはずだ。

そう後悔している。もう随分と昔の話だ。

若輩者で世間知らずの私は、分かった風な口調で、ガンの治療法、最近の議論、病院の評判を父に説明していた。そんなことよりも、父ともっと普通の会話をするべきだった。もっと思い出話をしてもよかった。中学生の頃から、アホな反抗期のせいで。あまりじっくりと話しをする機会がなかったのだから。

そして、リスクが高い外科治療をするよりも、放射線治療を行い、その間は我々家族と一緒に、病院ではなく、家で過ごそう、楽しもう、ゆっくり過ごそう、旅行も行きなよ、それが私の提案だった。世間知らずな若者に過ぎない私の提案に対して、父は、「お前が言うことなら、きっとそうする方がいいんだろう。わかった」と言った。それで、そうなった。

父は、命をかけて、私の浅はかな提案に従うと言ったのかもしれない。なぜだろう。仕事を辞めたらいい、というのも私の提案だった。セカンドオピニオン、サードオピニオンまでとるのも私の提案だった。結局、医者の主張はみな違っていて、我々は判断根拠を失った。無駄足だった。検査疲れした。最後は、私が治療法を提案したのだ。そのときは、私は父が完治せず、最後を迎えるかもしれない、と思いながらの提案だった。負担の軽い放射線治療だ。

最後の正月。初日の出を見に行った。今でも、痩せた父と一緒に祈った、あの風景、あの冷たい風、あの父のしぐさと言葉「ガンがなおりますように」を忘れられない。

鮮明に覚えている。おれは取り返しのつかないことをしているのかもしれない。そういう不安がよぎったときでもあった。どの医者の言うことを聞くべきか、おれは間違えたかもしれない。なぜか医者の説明はみな説得的だった。しかし、みな主張が違っていた。どうしてこうなるのか。どこかに私が理解できない、漠然と通過している論点があるはずなのだが、私はそれに気づくことはできなかった。

そういうことを私はずっと引きずりながら生きている。そして、今、私がもしガンになったら、妻や娘たちにどうしてほしいだろうかを考えている。

ガンの告知は、元気なときは、みな「おれは告知を受けて良い」と思ったりする。しかし、人間はそんなに強いものではない。体が弱り、痛みが増し、疲れてくれば、告知はショックを倍加する。インフォームドコンセントは理屈だ。

私はまだ、迷い続ける人生を歩んでいる。
若い時よりも、煮え切らない人間になったような気がする。

それでも、妻や娘たちへは、最後の最後は、夫であり父であり男でありたい、そして等身大の人間でありたいと漠然と思っている。そう考えているうちに、妻や娘たちに任せようかとも思う。しかし、それでは、彼女達の精神的負担が重かろう。やはり、私が決めておこう。

おやすみ



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夜中に食事していたら・・・

仕事で帰宅が深夜になった。午前2時だ。それから風呂、食事。食事はどうしても家で妻が作ったものを食べたい。生活のリズムよりも大事なものがあるのだ。忙しいほど、おいしい妻の料理を食べないと、精神的に破綻するから。心の支えの一つだから。

ということで、夜中2時半頃に遅い夕食を食べていたら、なんと長女が起きてきた。

いきなり牛乳を出して飲み始めた。え? のどが渇いたのか?と思いきや、やおら宿題を出してきてやりはじめた。
どうやら、学校から帰ってきてからすぐに寝てしまっていたらしい。ん?ということはもうかれこれ10時間睡眠?

それにしても、こんな時間にやらないで、朝、少し早く起きてやれば・・・・と言いかけて、思いついたときにやるのも一つの在り方だなと思ってとめなかった。

それでもあっという間に宿題は終わり、長女はまた寝室へ帰って寝てしまった。しっかりしているというか、すごいというか、あれぐらいの純粋な気持ち、私も忘れないようにしなければいけないと感じた。

子どもというのは、なんだか不思議だ・・・
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長女の手紙

夜中に仕事から帰宅したら、長女からの手紙が机に置いてあった。

パパいつもありがとう。だいすきだよ。

とあった。長女は、幼稚園の年少の頃に、字を覚え始めた頃から、よくこうした手紙をくれる。手紙を書くことをおしえたわけでもないのに。これは才能だなと思う。私も平仮名で返事を書く。

先日、風呂場の中から、長女がドアの曇りガラスに字を書くよ、という。
風呂場の外からわかるように、パパいつもありがとう ときれいな字で書いていた。

たったそれだけのことで、職場のいざこざや、負担の重い仕事でくらくらしているときでも、生き返るような気が。
子どもってすごいねえ。

ありがとう、は私のセリフということだね。

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本当の散歩

このブログタイトルは、今のところ「散歩にでも行こうか」となっている。
私は散歩が好きだ。目的もなく、ブラブラと歩いて景色をみたりしてね。そういうのが好きだ。
しかし、先日、幼稚園に通う娘と一緒に買い物に行った時のこと。たった5分か10分で着く程度の距離だったのに、30分くらいかかってしまった。娘が歩くのが遅いのではないのだ。

石が落ちていたといってはしゃがみ。
葉っぱが落ちていたといっては、しゃがんで拾う。
クモがいたといっては、こわがり。
花びらが落ちていたといっては、拾い。拾っては、姉の分、母親の分、私の分まで探す。
そうやって過ごすうちに、どんどん時間が経っていく。

最初は、「早く行こうよ」と声をかけたが、そのうち、「まあ、こういうものか」と思った。
ああ、これが散歩なのかなと。我が子にとって、どこに行くか、何を買うかは、重要じゃないとはいわないけども、もっと重要なことは、今、目の前に見えている風景を楽しんでいるということだ。

私は、若いころから、目的意識というものが苦手だ。目標や目的をもって、それに向けて最善の努力をするというのがどうもしっくりこない。どうしてそれが目標になるのか、どうしてそういう目的を持っているのか、そういうことに何の悩みもなく、邁進出来る人たちをうらやましいと思った。自分もそうならなければと思った。とくに受験とか、社会人になってからの英語とか資格の勉強とかね。

でも、やっぱり、こういうのがいいと思った。
いま目の前にあって、できること、することを楽しむ。
そうしているうちに、何か、楽しみのようなものがみえてきたりして。
近視眼的で、目的意識がなくて、ただ楽しむなんて、効率的じゃないし、合理的でもない。
でも、そういう方が好きだ。

とはいえ、何にせよ日常生活は忙しい。忙しすぎて、毎日、大量の目標というか処理すべきメニューが並んでいる状態だ。でも、気持ちは、散歩している感じ。背骨がよじれるぐらい、くやしくて、耐えられないようなともあるけどね。でも、基本的には散歩の精神でいたいね。

そういうことを改めて感じさせてくれました。
4歳の我が娘へありがとう。
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川の字

大人になった時はもう覚えていないのかもしれないけれども、私の帰宅が遅いと、二人の娘たちは、母親と「川」の字になって大きいベッドで眠っている。川の字というのはいい。これが家族だと思ったりする(しかし私が入る隙間がないのだが・・・)。

家族が寄り添って暮らす、寄り添って眠る、そういうことが自然である家庭が良い。いつまでこんなことが続くのやら分からないが、川の字の家族でありたい。それが一番安心する。疲れて帰っても、妻と娘たちが川の字になって「一生懸命」に眠っているのを見ると、あらゆる雑念が吹き飛び、安らいだ気持ちになれる。

家族よありがとう。

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もうすぐクリスマス

もうすぐクリスマスですね。クリスマスツリーを飾り、庭の木々にもイルミネーションをセットしました。奇麗だね。ところで、いつからクリスマスでは、イルミネーションになったんだろうね。ま、そういうことはさておき、クリスマスプレゼントは何がいいかな。楽しみにしていて下さい。

ちなみに、私は小学校3年生までサンタクロースが本当に存在していると思っていました。夜中に、父が私の枕元まで来て、プレゼントを置いて行くのに気付いた時(息遣いや足音で父だと分かりました)、「ああ、そうだったのか」と、驚きよりも、翌朝、何と話しかけていいのだろうか、と考えて眠れなかったことをよく覚えています。

そんなことがあっても大丈夫なように、サンタクロースの衣装を買おうかどうか考えています。衣装を着てひげを付けていれば、もし目撃しても、暗いところでは私とは分からないでしょう。でも、かえってびっくりしてしまうかもしれませんね。おねえちゃんは、2歳のとき、学習塾のクリスマスパーティで外国人のサンタクロースにプレゼントをもらったときに、怖いと言って号泣していましたね。鮮明に覚えています。そんなことにならないように、というよりも、もったいないからサンタの衣装は買わずに、二人が眠っているはずの朝4時頃まで頑張って起きてプレゼントを置こうかな・・・・・


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七五三

七五三だ。元気育ってくれてありがとう。
長生きしてね。パパが死んでも、ママが死んでも、あなたは元気で、頭も今のようにはっきりと、くっきりと、そして今のように素直で、元気で、負けず嫌いでいて下さい。長生きしていれば、きっといいことが、つらいことよりもたくさんあると思います。ママを助けてあげて下さい。

じゃまた
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我慢して我慢して我慢して

娘たちへ

社会に出れば、どうしてもウマ、ソリが会わない人達とも、協力して大事なことをしなければらないことがある。小学校や中学校、高校でも、あるいは大学でもそういうことがあるかもしれないが、社会に出てからは、逃げ道がなくて、ほとほとこまる。

毎日、仕事場へ行くのもつらい。そういう心境になることもある。
誹謗中傷を受けたり、いじめのような事態になったり、そういうことがあっても、びくともしない人間でありたい。そのためには我慢して我慢して我慢して、なんてことが大事なんだろうか?

実は、そう思って生きてきたのだけども、今、僕を支えているのは、君たちの笑顔、寝顔、泣き顔です。それだけで全てが清算される。肯定される。いやなこと、つらいことを忘れさせてくれますね。もう元気に毎日を過ごしてくれているだけで、十分に親孝行してくれているのだな、と思います。君たちは今、できること、出来ないことがいろいろあるけれど、精一杯、生きてくれている、それだけで、私も幸せにしてくれている、それだけで私は満足なのだ。

君たちの寝顔を見ながら、ほっぺにさわりながら、手を握りながら、そう思うだけで、許せない人物のことも、耐えがたいことも、全て心の中でご破算に出来る。そういう命の輝きってあるんだなと思う今日このごろでした。

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寒くなってきたね

11月になったから、少し寒くなってきたよ。冬が近い証拠だね。

今年の夏は本当に猛暑で、過去最高の平均気温を記録したなどということがニュースにもなっていた。では今年の冬はどうなるのだろう? 寒いのだろうか? 暖かいのだろうか?

パパは、実は、暑い夏よりも、寒い冬の方が好きなんだ。夏が嫌いということはなくて、どちらかと言えば、冬が好きということだよ。冬は何がいいのかって? クリスマスがあったり、お正月があったり、着こんで暖かくしていれば何とか凌げるし、もう10年以上やっていないけれどスキーが大好きだし、なんだか空気が冷たいと、空気が澄んでいるような気がするし。雪が降り積もった早朝、街がシーンと静まりかえっていて、自分の足が雪に沈む音だけがぎゅ、ぎゅ、っとする感じがなぜか好きだから。

どっちが好きかい? 夏? 冬?

雪が降ったら、雪合戦しようね。

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責任感

娘たちへ

責任感を持つということは、とても美しいことだと教えられるものだね。学校でも社会でも、責任感がある人は立派だという言い方がされているね。それは否定しないよ。責任感は大事だよ。だけど、世の中には、責任感に押しつぶされてしまう人もたくさんいるよ。かわいそうに。美徳だからといって、責任感をいくら強調しても良いからといって、たった一人の人間に、全ての責任が押し付けられるのはちょっと無理があると思わないかい?

人間はしょせんは人間だよ。完璧な人間はいない。首尾一貫した人間もいない。常に合理的な人間もいない。理性が優先されて感情が抑制できる人間もいない。流されることもあれば、勘違いすることもあるし、思わず心にもないようなことを言ったりやったりすることもある。それでも自分勝手には限度があるから、社会にはルールというものがあるのだろう。

だから、君たちが責任感を感じて落ち込むことがあっても、それはそれで良いことだが、最後は、「無」責任感を持つぐらいで、したたかに生きて欲しいと思う。「責任を取れ」と言われることがあっても、それは誰かの責任の一部か全部を全て押し付けられているかもしれないのだから、全ての責任を自分で背負い込むことはない。

もちろん、無責任で生きていいじゃないかとはいわないよ。大事なことはバランスだよ。責任感と無責任感のほどよいバランスがとれるようになったら、それなりに楽しく、うまく生きていけるのではないだろうかと。そう感じることがあるのさ。

責任ある態度と、無責任な態度というのは、ゼロか1かという二分法で語られることが多い。善か悪かという二分法かもしれない。何れにせよ、どちらか一方に偏ったものの考え方は、どこかバランスが欠けているような気がするよ。責任という言葉を使って、格好いいことを本に書いている人がいたら、それは疑いの目で見て良い。

パパは、本当に大勢の人と接してきたけれど、完璧な人間は一人もいなかったよ。家庭も仕事も、全てに責任感を背負いこんで、本当にその責任を一人でまっとうしている人はいなかったよ。うまくやっているのだよ。人と協力して、そして、ときには責任感と無責任感との間でうまくバランスをとっているのだよ。

でもやはり一番大変なのは子育てかな。無責任ではいられないからね。だから子育てはみんな必死なのだよ。
だから君たちのママにはいくら感謝してもし足りないぐらいだと思うよ。
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天気予報

いつの日からか、天気予報では降水確率が発表されるようになった。しかし、この降水確率というものは本当に何のことか難しい。いやもちろん、定義はあるのだ。ネット上で調べてみると、「予報区内で一定の時間内に1mm以上の雨または雪(融けたときの降水量に換算する)が降る確率」(wikipedia)ということだそうだ。それはそうだろう。それはもっともな定義だ。

私が難しいねと思うのは、例えば、降水確率30%とは何かということだ。昨日に至っては、降水確率50%という予報だった。降水確率50%とは、降るかもしれないし、降らないかもしれない。五分五分だ、といっているのだ。その予報の解釈は難しい。では30%の解釈はどうだろうか?

頭の良い人たちが、コスト/ロスモデルだとか何とか言っているようだが、その前に、我々にとっての確率というものは一体何なのか、そういうことをもっと丁寧に誰か教えてもらいたいものだ。お前が知らないだけだ、と心の中で考えた人は、どこかできっと思考停止をしているのではないだろうか。いや失礼。

もっと分かり易く言おう。降水確率ではなくて、違う状況を考えてみよう。あなたは、明日、30%の確率で死ぬ。そして70%の確率で生きる。さあ、これを「文字通り」受け止めることが出来る人は、本当に頭でっかちな凄いひとだと思う。人間は、永遠の命はないわけで、つねに死ぬ確率はゼロではない。事故に遭うかもしれない。だから、それが何だというのだ、と考えた人もいるだろう。

明日、3割の確率で死に、7割の確率で生きているという分析が仮に正しいとして、それはどういう意味なのだろうか。つまり、明日は死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。多分、生きているだろうけど・・・という意味にとらえればいいのだろうか。では、明日、4割の確率で死亡し、6割の確率で生きているとすると、その解釈はどうなるのだろうか。つまり、私という人間にとっては、明日は死ぬかもしれないし、生きているかもしれないし、私は生きていたいと信じているが、何があるか分からない。そして、答えは二つに一つ。ただそれだけなのだ。3割とか4割とか、それがもし過去の統計情報から得られた数字であっても、それは過去の私以外の人たちに関する情報でしょ。その人たちで私の生死を決めないで頂きたい。

話しが逸れたが、降水確率も、雨が降るか否かだけだ。あの確率を持ちだしているのは、確率を公表している人たちの自己満足か、それが利用者の利便性向上につながっているという幻想があるためだろうと思う。少なくとも、私は確率なるものとうまく日常で解釈して使うことが出来ない。

確率というもので何かを表現すれば、奇麗に表現できたと思うのは、少し、人間性に欠けた話しではないだろうか。
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寝顔

仕事でどんなに苦境に立たされていたとしても、家族の寝顔ほど心が休まるものはない。
よく結婚式で、結婚する男女が、それぞれの両親に向かって、これからも親子孝行していきたいと言ったりすることがある。しかし、私はすでに十分すぎるほどに親孝行されている。これほど苦境に立たされていても、毎日、明るく楽しく過ごすことが出来るのは、一つには、その安らかで無邪気な寝顔があるからだ。

それにしても、こんなふうに寝顔を見ることを許しててもらえるのは、あとどれぐらいだろうか。成長は早いからね。今のうちに、精一杯、その寝顔を堪能しておこう。

あわよくば、私の両親が、私の寝顔で心が安らいでいたことを祈る。

妻と幼い娘たちの寝顔と、ダイナミックな寝相は、心のオアシスだ。
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苦しいときもあるさ

娘たちへ

私は今、仕事でかなり苦しんでいる。それは事件やスキャンダルといったブラックな類のこととは無縁の話しで、言うなれば、既成概念にとらわれない新しいものを作り出す作業だ。世の中では、多くの人たちが頭を悩ませながら、常に新しい製品や商品、価値観を築き、それを広めたり、失敗したりを繰り返していることからすれば、当たり前の小さな悩みかもしれない。しかし、やはりかなり厳しい状況だ。

ブレイクスルーという言葉がある。言うは易し。私がブレイクスルーするぐらいなら、他の誰かがそうしていても不思議ではないさ、などという気持ちにもなったりする。時間、予算、人材無制限で取り組めるならばいざ知らず、限られた時間で、限られた予算で、限られた人材でブレイクスルーを考えるのは悩ましい。

いくら考えても考えても、いいアイデアは思いつかないものだが、しかしそれでも考え続ける必要があるのだろうと思っている。そうすれば、あるとき、ふといいアイデアが思いつくかもしれない。と思っていても、なかなかブレイクスルーできないことも多い。

苦しい時。うまくいかないときもあるさ。昔、一休和尚が遺言で残した巻物には、大丈夫、心配するな、何とかなる、と書かれてあったそうだ。きっと何とかなる。最後の最後まで考えて考えてトライしてトライして、考え抜いていれば、大丈夫。何とかなる。そう自分に言い聞かせている今日この頃です。

君たちも、いつか、きっと苦しい場面に立つ時が来るだろう。大人になっても、苦しくて八方ふさがりなときもあるだろう。最後の最後まであきらめない胆力がとても必要になるかもしれない。考え抜いてん、やり抜いた後ならば、ときにはだめになることもあるさ。それぐらいの、いい意味での無責任さがあってもいいのではないだろうか。

と、ブログに書いている私は今、気分転換をしているのだが。現実逃避なのかもしれないが・・・・・。
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分かりやすい説明・・・

娘たちへ

何日か前に、「占い」に関連して、「人の人生に関する統計データなどないだろう」という趣旨のことを書いたね。でも、きっと、他人の人生は要約して類型化できると信じている人もいるだろう。「そうしたいか否か」という価値基準の問題だと主張する人もいるかもしれない。私は特定の学問を深く学んだことがないので、そういった類型化という作業の持つ意味とか利便性について専門的に語る力はない。しかし、ここはあくまで等身大の私の思うところを述べたいところなので、学術論文まで調査したりはしない。確かに、人生を要約して類型化できるとすれば、それは分かり易いし便利かもしれない。たとえば、「血液型がA型の人は◎×▲だから◎◎なんだ」という解釈は、相手を深く洞察するという疲れる作業を省略して、理解させてくれる分かり易い道具なのかもしれない。しかし・・・・と思うのだが。

今日は、「分かりやすい説明」というものについて考えてみたい。

人生を要約して分かりやすく説明したものは、実際にたくさんある。たとえば伝記だ。私も子供のころ、様々な人たちの伝記をよく読んだものだ。そして自叙伝というのもある。ある新聞では「私の履歴書」というコーナーもあるという。だが、伝記も自叙伝も私の履歴書も、多くの雑多な情報を取捨選択し、ある時点までに至る事実と事実の背景や経緯のようなものを、「分かり易くなるように」まとめたものになっているだろう。そういうふうに、私も自分の半生を語ることは出来なくもない。

この「分かり易くまとめる」という技術は非常に重要だ。分かり易くないと他人には伝わらないからだ。どんなにすぐれた企画をまとめようと、どんなに優れた発明をしようと、どんなに優れた意見を持っていようと、それを自分以外の人間に分かってもらえないと、話しは前に進めない。こういう能力は社会に出ると重要だ。分かりやすい説明というのは、起承転結、あるいは原因と結果が「飛躍がないかたちで」まとめられているというような要素があるのだろう。おそらく、君たちも、学校で、そして社会人となってからも、どのような職業に就くとしても、そういう技術に磨きをかけていくことになるだろうね。

ある人が、非常に残酷な犯罪を犯したとしよう。その原因は、幼少時の経験かもしれない。その後の成長過程での何らかの経験かもしれない。その犯行に及んだときの何かかもしれない。何かをきっかけとした衝動的行動かもしれない。それらのどれでもなく、単に魔がさしただけなのかもしれない。そういうものを検討したり調査したりするひとは、「本当のことは分からないけれども、これなら自分も世間も上司も、場合によっては被告本人さえも含めて、みなが納得するであろう」という、「事実の断片をつなぎ合わせる最も尤もらしい物語」を作ることになるだろう。

事実の断片をつなぎあわせた最も尤もらしい物語というものは分かり易い。何せ、事実の裏付けがある。その事実と事実を結びつけるために、権威の論文や実証データ(のようなもの)がある場合も多い。「被告は幼少時に◎◎な経験をした。被告は被害者と◎◎の関係にあった。被害者の自宅に◎◎が落ちていた。この解析結果からすると、99.9%の確率で、この髪の毛は被告のものである」などというような説明は、被告が現場近くにいた、髪の毛が発見されたという事実と、被告と被害者が何らかの関係があったという推測、それらを結びつける権威が用いられているケースであろう(しかし、それにしても、このようなとき、0.1%は本人ではない確率が存在しているということになるのだが、もしそうだったら単なる冤罪であり、その点の評価は誰がどうするのか?推定無罪とは何か・・・・という話しはまた今度)。

何が言いたいかというと、「分かり易いということ」は、誰がの主観や恣意的判断で、色々な情報が「ノイズ」として捨象され、いくつかの事実のピースをつなぎ合わせる分かり易い物語性があることだ。だから、捨象したモノたちに、本当はとても重要な事実が隠されていたりすることもある。こんなふうに文章を書いている私でさえ、この雲を掴むような思いを分かり易く説明するために、いろいろな情報を捨象している。え?支離滅裂で分かり難い? 申し訳ない。つまり、分かり易いということは、単に言葉が平易であるということを意味しない。いろいろな情報を捨象して、あるいは極めて単純化して、語り手が伝えたい物語に変換したりつなぎ合わせたりしていることが多いのだ。

このように考えると、分かり易い説明には気をつけなければならない。どのような事実が捨象されているかが分からないからだ。説明を聞いている者には分からない。場合によっては事実を異なることを羅列されている可能性さえあるだろう。そして、物語性がしっかりしているということは、その説明をしている者が自己の主張に相手を巻き込むように、よほど練られている可能性がある。よく出来る人は、ときどき、その上司から、「君の話しは説得力があるな」などと褒められたりすることもある。しかし説得力ある話しが事実やある事柄を説明するのに本当に正しいかどうかは分からない。ただ、説得力があるものが正しいのであろうと考えたいという願望はある。

だが、私の経験上、リアルタイムで進行していく様々な出来事は、そのときそのときではうまい説明が見つからないような、支離滅裂というか、過去の事実と関係ないような、あるような、そういうことの積み重ねだ。私がママと出会ったのは、私が小学1年生のときに友達と大喧嘩をしたからなのか? そのことが原因で・・・・そして中学生になって・・・なんて事実が原因なのだろうか? それとも、要するに色々が偶然が重なって出会ったのであって、物語なんでなかったのか・・・・・? 私が今の仕事をしているのは何が原因なのか? 学生のときに○×を勉強したから? 私の記憶によれば、本当に物語性に適さないような、何でもない理由と事情によって仕事を決めたのだ。

人生を要約して類型化することは分かり易い。分かり易い説明は、文字通り、分かり易い。でも実際に起きている様々なこと、経験する事柄には、分からないことや分かり難いこと、前後の繋がりが全く理解できないものなど、たくさんある。だって人間は、首尾一貫した論理や行動原理、思想、考えを持ち続けて常にそれに基づいて行動しているわけではないからね。

だから、分かり易い説明に溺れないようにしてほしい。私もよく騙されるけども、それでも、いつもそう心がけている。説明が少しばかりしどろもどろでも、誠実さが感じられる人間の方が信用出来る場合もある。その虚を突いて、しどろもどろの説明で誠実さを装う人間までいるから気をつけないといけないが。

最後は、説明の分かり易さよりも、権威の説明よりも、それを聞いて行動する自分の中での常識というか良識というか、人間としての見識が問われるのだ、ということを覚えておいてほしい。血液型や星座や手相などで相手をステレオタイプ化して見る前に、人間や人生はそんなに単純化できるものではないのだ、という気持ちで受け止められるように努力してほしい。なお、嫌いない人間を無理して好きになる必要はないし、そういう人間を○○な人間なんだなと単純化して頭の中で分類することは否定しないよ。

問題は「ここぞ」というときには、よく考えてね、と言いたいだけなのさ。結婚したい男性が現れたとき、自分のどこが好きなのか、どうして自分なのかを聞いてみたらよい。分かり易い説明、説得力のある説明をする男がいたとしたら、その男は怪しいと私は思う。その男との結婚にはあまり賛成できない。私はそう思うのだが、大人になった未来の君たちは、どう思うかい?

ではおやすみ
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動物園

娘たちへ。

今日は動物園へ行ったね。道路が混んでいたために、到着するのが遅くなって申し訳ない。

シマウマやキリン、ゾウ、ライオンを観て、「わぁーーーーっ」と大きな声をあげて感動している姿に感動しました。私が子供のころは、実は、動物園で感動した記憶があまりないのです。混んでいて疲れたのか、動かない動物をみてもあまり面白くないと感じていたのか、その当時のことはあまり覚えていませんが、それほど感動していなかったような気がします。でも、そんな私の幼い頃に比べて、あなたたちの感動のしようといったら凄いもので、それにつられて私も感動してしました。

ライオンは一日のうちで殆どは寝ているんだよ、狩りはメスがするんだよ、オスは4歳ぐらいで群れを離れて行くんだよ、他の群れのオスと格闘して勝たなければ群れには入れてもらえないんだよ・・・・・あなた達が感動する顔をみて、私も知っているつもりの知識を一生懸命しゃべったりしてしまいました。そんなことは、あなたたちの感動とはほとんど何の関係もないのに、その感動に相乗りしたくて。

それにしても、キリンの首が長いこと。それでも人間とは首の骨の数が同じだったりするのは不思議だ。あの模様も、なぜあのような模様なのか。シマウマのシマは人間の指紋のよなもので、みな異なっていること。不思議だ。あれは皮膚から色が違うのか、それとも毛の色が違うのか。それはなぜなのか。なぜあのように目立つ模様なのか・・・。考えるときりがない。いろいろな形、生活習慣などの動物に触れることはとてもいいことだね。

昔に比べて、動物園も広くなって、サファリパークとまではいかなくても、かなりスペースが広くなってきているような気がする。気のせいかもしれないが。

それにしても、どんな動物でも赤ちゃんは可愛いね。君たちも赤ちゃんだったのだよ。小さくて、ちょっとしたことで大けがしたり、病気になりそうな気がして、パパも不安がいっぱいで抱っこしたものだよ。生まれた直後は、目を開いてもどこを見ているの分からない。でも目を開けて、口をもごもごしただけで感動したものだ。命の不思議さと感動と大切さが、そのときに本当の意味で分かったような気がする。頭でわかるのと、心で分かるのでは大きく違うんだよね。頭で命の大切さがいくら分かっても、それは分かっていないかもしれない。心で分かることというのは、理屈を超えて分かることをなんだよね。その境目が、色々な経験をしても分からなかったのに、君たちが生まれたことで分かった気がする。

動物園という仕組みを批判する人もいるようだけれども、動物園にて様々な命の形に純粋無垢な君たちが触れることは、理屈ではない、何かを感じる意味でとても大切なことのような気もする。というのは後から考えてのことであって、動物園にいる間は、とにかく刺激が多くて楽しかったね。それでいいよ。

今日は疲れたでしょう。また行こうね。
おやすみ

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過去は大事だけども・・・

昨日、「占いは統計学だ」という人がいたら気をつけた方がいいかもしれないと書いたね。それはそうなのだが、その理由は、「人の性格や人生に関する統計データがない」というだけの意味で読んでしまったらとしたら申し訳なかったね。統計データはない。そのようなものは聞いたことも見たこともない。作ることも出来ないだろう。しかし、もっと大切な問題がある。

仮に、統計データがとても整備されているような理想的な世界があったとしよう。もちろん、人の性格や人生についでだ。さて、そのようなデータがあれば、君たちの人生や性格が占えるだろうか? 特に、これからの人生について占えるだろうか?   私の考えでは、それは絶対に無理だというものだ。

過去や経験に学ぶことの大切さを否定するつもりは全くない。それはとても大事なことだと思っている。あくまで、歴史を楽しみたいとか、教訓を得たいという理由ならばの話しだ。しかし、過去、歴史、経験から、将来が見えると思ったら大間違いだ。だから、占い師が、「占いは統計学だ。統計データはあるのだ。数千年の歴史のデータがあって、それに基づく研究結果なのだ。だから、あなたの未来が見えるのだ」などといったら、絶対に嘘だと思って間違いない。それは絶対に嘘である。その占い師の元を立ち去りなさい。お金を返してもらいなさい。ああ、これはいけない。「絶対」という言葉を軽々しく使ってしまった。失礼。

過去や経験から学ぶことはあれども、それで未来は見えるようにはならない。なぜだろうか?
ここで私が解説するよりも、今まで歩んできた自分の人生を振り返ってみてほしい。

統計データで過去の傾向のようなものが見えるかもしれない。父親は、いつも仕事をしているから、きっと明日も仕事をしているだろう、というように。そのように考えてしまう傾向があるのは、世の常、人の常なのかもしれない。太陽は明日もきっと東から昇るだろうというようにね。でも、さっき振り返った自分の人生はどうだろうか?

何となく、昨日までと今日も同じ日が過ぎていくように感じることも多いかもしれない。でも、同じように過ぎている日々でも、どんどん変わっていっているんだよ。パパは今日まで生きているから、明日も生きているのかい? 生きていたいけど・・・・。いろいろなことを体系的に整理して書きたいところだけれども、そこまでしっかり考えていないし、もう夜も遅いので、今日は、一つだけ、書いておこう。

過去を振り返ると、「経路依存」だと思わないかい? 「経路依存」というと、賢そうな人たちが、あれやこれやと語っている論文や書籍、インターネットホームページ、ブログなどいろいろあるけれども、そんなに難しく考えるのはやめよう。「厳密に」考えることは、「厳密に考えたい人達」に任せておけばよい。さて、経路依存だけども、何かというと、君たちは、運命なのか偶然なのか、私とママの子供として生まれた。そして今の君たちは「だからこそ」の今なのだ。将来、どこかで好きな男性に出会うかもしれない。え? もう出会った? 連れて来てみなさい。パパはゆっくりお話したいと考えている。そういう出会いが人生を大きく変えることもある。その人との出会いは全く以って、過去の経験やデータからはうかがい知れないような、本当の偶然かもしれない。それで人生が変わる場合もあるのだ。人生は、そうやって、色々な出会いという予想外の出来事で、次が展開し始めることがなんと多いことか。

私がママと出会ったのは本当に偶然だ。そして結婚することになった。その「想定外だった出会い」によって、その後の人生が、出会わなかったときに歩んだであろう人生(そんなものはないのだが。あくまで空想の世界)とは大きく変わったはずだ。そういう一つ一つの、予想外の出来事に導かれて今日に至っているようなことを経路依存だと考えてほしい。専門的な厳密な正しい説明は、その道の人に聞いてみればいい。きっとつまらない説明をしてくれるだろう。

そういう、予想外の出来事で、次々に人生が展開していくことを、過去の経験や歴史は説明してくれるだろうか? 過去の歴史や経験では、「そういうふうに人生が展開していくこと」を教えてくれる。しかし、だからといって、これからどのように展開していくのか、様々な偶然の積み重ねが、どのような展開に導くのか、そのようなことは、「統計学」とやらには何も分からない。統計学は、過去に起きたことをデータに基づいて解説したり、将来について、おおざっぱな傾向を掴むことは出来るのだが。それは当たらないと考えておくのが無難だと思うよ。

ちょっとここで誤解がないように一言。ここで言う統計学は、記述統計の話しではない。占い師が言うような、統計を使って将来が見えると主張する人たちのいう統計学を指す。

もう一度言う。過去や経験から学ぶことは多い。しかし、それで未来が見えるという人がいたら、その人は、ちょっと怪しい。騙されないようにね。占い師以外にも、それらしい人たちはたくさんいるから気をつけて。経験則だけで世の中や人の人生、性格が分かると思い込むことは、それはそれで幸せの一つの形かもしれないが、現に、人生はそうではないのだから、そう思い込まないで生きていって欲しい。

あ、ボートから撮った写真だよ。風が気持ちよかったね。
河口湖でボート.JPG

おやすみ

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散歩に行こう

アカウントを取得してブログを書き始めることにしたよ。今日現在では、ブログのタイトルは、「娘たちよ、散歩にでも行こうか」としている。娘たちへ書いているのだ。

散歩に行こうというのは、別に、外を出歩かなくても、いろいろと考え事の寄り道してみようよ、ということである。娘たちよ、君たちはまだ幼い。いま私が考えていることをそのまま伝えても、おそらく理解できないだろう。では、君たちが大きくなるまで待っていたら、私が今まさに考えている、このホットな、等身大の思いや考えを伝えることはできないかもしれない。君たちが大人になった頃、私は考えが変わっているかもしれない。私はもっと成熟してしまっているかもしれない。それでは面白くない。だから、ブログにでも書き留めておこうと思ったのだ。

このブログには、何か大きなテーマがあるわけではない。そんなものは必要ない。「目的」とか、「意義」とか、そういう分かり易いものは必要ない。私は海外旅行へ行って、スケジュールを組んで、あちこちを回る団体ツアーが嫌いだ。それに参加して、回ることが目的になっている。でも目的であるから安心感もあるのかもしれない。でも私は嫌いだ。だから、私は、今までそういうものに参加したことがない。海外に行ったときは、その日その日、"行き当たりばったり"で行きたいと思ったところに行く。半日ホテルで寝ていたり、本屋で立ち読みしたり、喫茶店で過ごしてしまうこともあった。そういう目的のない旅が好きだ。

実は、今は君たちには言えないし、言わないつもりだが、「人生には明確な目標を持て」というのは好きではない。それを強調しすぎると、目標や目的がなければ人生が無味乾燥なものに聞こえてしまうではないか。何か特定の目標や目的があって、そのために邁進するだけが人生ではないと私は思っている。だいたい、人間が生まれてきて、やがて死んでいくのに、本当の意味での目的とか目標があるのだろうか。そういうものはない、と考えるのも、あながち間違いではないだろう。

これは散歩だ。行くあてもなくブラブラと歩いていると、道端の花に気付くかもしれない。近所のおばあさんに会って、とりとめもない話しをするかもしれない。危ない目にあうかもしれない。雨が降って濡れてしまうかもしれない。虫をたくさん見かけるかもしれない。面白い子供に出会うかもしれない・・・。そういうふうに、散歩を楽しむように、人生を楽しめたらいいと思う。もちろん、「そんなことでは大きな仕事、立派な仕事はできない」という人もいるだろう。でも、それが何だというのだ? どのような人間も、遅かれ早かれ、何れは死ぬんだから。じゃあ、何が大きな仕事で何が立派な仕事なのだろうか? ヘッジファンドで大儲けすることか? 会社の社長になることか?大きな橋やビルを建てることか? それはそれで大きくて立派ないい仕事かもしれない。

でも、君たちを育てていることだって、人間にとって一番大事で大切でかけがえがないことだと思う。それには何か目標が必要なのだろうか? 有名私立小学校へ入学させることだろうか? 振り返って、たとえば、私がママと出会って結婚するという人生の大きな転換点において、私は目標があったのだろうか? 本当に偶然に出会ったのだ。目標を持っていたわけではない。子供を育てるときに特定の目標を設定したほうがいいのだろうか? 親友とたまに会って話をするのに目的や目標が必要だろうか? きっと人生はそんな単純なものではないのだろうね。

ところで、円高だそうだ。海外に行かないので個人的な生活には関係ない。私の職場ではそれなりに影響があるかもしれないが。これからどうなるのか? そんなことは分からない。分かるわけがない。分かったら億万長者だ。未来がどうなるかなんてわかるわけがない。そんな話をしていたら、職場で、ある女性が「占い師に聞いてみたら?」「当たる人がいるらしいよ」と無邪気に言っていた。将来に関する「占い」は当たらない。将来を「当てる占いはない」と思った方がいい。当たったとしたら、①それがたまたまだった、②当たったとも言えてしまうぐらい、占い自体が抽象化されていたり曖昧だったか、の何れかだ。

未来について「当たる占い」というのは私は信用できない。そういうものが、もしかしたら、この世にあるかもしれないと私は思っているが、よほどの実例をこの目で見ない限り、未来の占いに関しては疑いの目で見ている。

将来とか未来というものを当てることができるのであれば、その占い師は仕事を変えるべきだろう。変えるかどうかは本人の自由だが。例えば、「あしたになれば大根の値段が倍になる」と「とても良く"当たる"占い師」が言ったとしよう。どうなるだろうか? 値段が倍になる前に大根を買おうとする人が増えるだろう。何せ、その占い師はよく当たるのだから。そして、その日のうちに大根の値段は倍になってしまうだろう。この占いが当たるためには、当初は「明日は今日の倍になる」と言っていた値段が、今日既に倍になってしまったので、当初の4倍の根台にならないといけない。でも、そうすると、最初の「倍になる」という占いは間違っていたことになる。

この説明はこのぐらいにして、何れにせよ、将来の占いは当たらない。いやいや、八百屋が閉まっている夜に、そういう占いをすればいいんだよ、という人がいるもしれないが、もはやそんなことはどうでもいいだろう。そういうことを一生懸命考えてもしょうがない。

「占いは統計学だ」などという人がいる。そんな人には気をつけてほしい。その人は統計学を知らない人だ。そして、統計とは何かが分かっていない人だろう。技術的なことはさておき、そもそも、その占い師が言う「統計」とは何だろうか? 人の人生を単純化し、何かの傾向別に数を全て数えたのだろうか?  君たちが今まで歩んできた人生を、たった一言か二言で、それも成功か、失敗か、というように占いに応用できる評価軸で言い表すことができるだろうか?

とても一言か二言で語れるものではないかもしれない。それならば、誕生日だの、名前の画数だの、血液型だの、星座だの、という特定の切り口でもって、ステレオタイプ化された人生や性格を評価されるのは、人間心理のいいところをついてきているような気もするのだが、それに依存するのはおかしい。

そんなものを大切にし過ぎることは、この世に命をさずかった奇跡に対して侮辱ではないかとさえ思うこともあるよ。だから、私もママも、あなたたちの名前を付けるとき、姓名判断とか、画数などというものは全く気にしなかったし、そのような参考本などみないで付けた。もちろん、非常識な名前などはつけていないつもりだ。どこの馬の骨とも分からない人が書いた、実は信頼できる統計など持っていなくて(個人で集められるような、名前と人生をステレオタイプ化して関連付けた統計などない)、どうしてそういう説明になるのか全く分からないのに、それを一生懸命書いている。

そのような人たちに、かけがえのない君たちの名前を事実上決めさせることなど出来やしないではないか。彼らは、普段は普通の人だぞ。仕事としてやっているのだ。小学校、中学校、高校も普通に出て、大学行った人もいるし、海外に行っていた人もいるだろう。そして家族がいたり、いなかったり。何れにしても、生活をしていかなければならない普通の人間であって、神がかり的な人はいないだろう。いわば、アカの他人だ。そういう人のアドバイスで、この世で最も大切な我が子の名前をつけられるかい?  別につけてもいいんだけど。何か悪いことがあっても、名前のせいにしちゃいけないよ。もっと大きくなって、姓名判断の本か何かで、あまり良くないことが書いてあったとしても、そんなものに振り回されてはいけないよ。私やママの愛情よりも、そのような本を書いた人の一言を気にするのは、本当に無益なことだよ。

そのようなまやかしに騙されないために何が必要なんだろうね?

ブラブラと散歩するのがいいな、と私は思っている。目標を持って走っている人は美しいが、その人が、柔軟な発想や深く物事を考えているとは限らないよ。やっぱり、いろいろなことを見て、感じて、話して、聞いて、そういう散歩をするのがいいと思っているよ。運動不足の解消にもなるしね。そういう散歩の中で、自分の思いとか考えといものが出来てくると思っている。

自分の思うままに、自分で考えて、自分が行きたいところへ行って、観て、感じて、話して、聞いて、味わえばいいのだ。そうしていると、今まで思ったり考えていたことが不思議に思えることが出てくるかもしれない。昔は常識だったことが、今では非常識になっていることなんかいくらでもある。日本では常識になっていることでも、海外へ行けば非常識なことはいくらでもある。そう考えると、学校や職場で当たり前のように教えられていたり、行われたりしていることは、実は非常識なことなのかもしれない。そういう広い視野をもって、物事に接することが「少しでも」出来ればいいよね。いつも、そういうことばかり考えていると、社会性や協調性がない人物だというレッテルを貼られてしまうリスクもあるから、「少し」でいいとは思うぞ。無理をする必要はない。したければすれないいけれども、したくない無理をする必要はないと思う。

このブログがいつまで続くか分からない。もしかすると、明日には書かなくなってしまうかも知れない。分からない。未来のことは誰にもわからない。でも、まあ、そんな感じで気楽に行こう。何でも知っていて、それでいて人間的で、よく失敗して、ときには怒ったり、悲しんだり、強くて、優しく見えているであろう(?)現在のパパが等身大で書いているよ。大きくなって、大人になって、このブログあるいはブログを印刷したものを君たちがみたとき、へえ、あの頃、そういうことを、そういうふうに考えていたんだ、へえ? と少しの驚きと安心感がわいてくるならば、書いた甲斐もあったというものだ。

あ、この間、朝早くに撮った富士山の写真だよ。
朝焼けと富士.JPG

きれいだね。
じゃお休み。



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